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『歎異抄』を読む(その140) ブログトップ

10月3日(水) [『歎異抄』を読む(その140)]

 法然や親鸞がしきりに本願ぼこりを批判しているのに、唯円はここで本願ぼこりはけしからんと言うことを問題にしているのです。でも、先回りして言っておきますが、唯円は本願ぼこりを擁護しているのでもありません。ことはなかなか複雑です。
 では唯円はどうして「本願ぼこりはけしからん、そんなことでは往生できない」とあげつらうのは真の教えに背くと言うのでしょうか。次にその理由が出てきます。ここは親鸞と唯円の対話形式で書かれていて興味深くそして深いところです。
 ぼくらはともすれば、善いことをしようと思えば善いことができ、悪いことをしようと思うから悪いことができると思います。でも実際は、善いことをしようと思っているのに、ふと悪いことをしてしまったり、悪いことを企んでいても、ふと善いことをしてしまったりするではないでしょうか。
 「ひとを千人ころしてんや」は、それを問いかけているのです。これが宿業です。宿業とは「過去の行い」という意味ですが、善いことも悪いことも心に任せられるものではなく過去の行いによって定められているのだと言うのです。
 でも、そんなことを言いますと、ぼくらは自由ではないということになってしまわないでしょうか。似たことばに宿命というのがあります。どんなにジタバタしても、もうそうなるように定まっているのだから仕方がない、それが宿命というものだ、というように言います。
 こんな話を聞いたことがあります。あるレストランでイスラム教徒のウエイターがうっかり皿を割ってしまった時、そのウエイターは「この皿は、アッラーによってこのように割れるべく定められていたのだ」と言い訳したというのです。こんな言い分を認めたら、もう責任というものを一切問えなくなってしまいます。

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