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『歎異抄』を読む(その141) ブログトップ

10月4日(木) [『歎異抄』を読む(その141)]

 世の中は、人間は自由であり、だからこそ自分の行為について責任を取らなければならないという前提の上に成り立っています。宿業や宿命という考え方は、その大前提と真っ向からぶつかるのではないかという疑いが生まれてくるのです。
 宿業や宿命を認めたら、もうどんな約束も成り立たなくなってしまうのではないでしょうか。約束を破ることも宿業だとなりますと、約束を破った人に対してその責任を問えなくなります。そんなふうになりますともう社会生活は崩壊するしかありません。
 何度も引き合いに出しますが、デカルトの「われ思う、故にわれあり」ということばは、ぼくら一人ひとりは自由であるという宣言です。これがいかに衝撃的な宣言であったかは、当時は「神思う、ゆえにわれあり」が大前提であったことを思い起こせば明らかです。
 聖書の冒頭に「神は“光あれ”と言われた、すると光があった」とあります。神が何かを思うこと、これがすべてを決定するのです。この世のすべては神の摂理、つまり神がどう思うかにかかっている。みんながそんなふうに思っていた時に、デカルトは「われ思う、故にわれあり」と言ってのけた。だからこそ、ここから近代が始まったと言われるのです。
 分かれ道でどちらに行こうか迷い「右に行こう」と決めたとしましょう。そう思っても誰かに邪魔されて右には行けないかもしれません。でも「右に行こう」と思うことは自由です。この自由はどんなに絶対的な権力を持つ者も奪うことはできません。
 「右に行こう」と思うようなヤツは死刑にすると脅しても、誰かが密かに「右に行こう」と思うことを阻止することはできません。これが自由ということです。ところが宿業という考え方はこの自由を否定してしまうのです。「右に行こう」と思うのも、そのように前もって定められているのだと言うのですから。

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