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『歎異抄』を読む(その147) ブログトップ

10月10日(水) [『歎異抄』を読む(その147)]

 親鸞は関東への手紙の中で次のように言い聞かせています。
 「もともと無明の酒に酔っぱらい、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒を好んでいたのを、仏のお誓いを聞き始めてから、無明の酔いも少しすつ醒め、三毒も少しずつ好まないようになり、阿弥陀仏の薬を好むようになってきたはずです。ところが、まだ酔いも醒めきらないのに、また酔いを重ね、毒も消えきらないのに、なお毒を飲もうとしているようで、何とも浅ましいことです。煩悩具足の身だからと言って、心のままに、してはいけないことをし、言ってはいけないことを言い、思ってはいけないことを思って、どのようにでも心のままに振る舞っていいのだと言いあっているようですが、返す返すも情けないことです。酔いもさめないうちになお酒を飲み、毒も消えないうちに、いよいよ毒を食べるようなものです。薬があるから毒を好め、などということはあってはならないことです。」
 少し前から学生の間に大麻が蔓延しているようです。どうして大麻なんかにと思ってしまいますが、心にポッカリ隙間があき、それを何かで埋めたいという思いがあるのでしょう。マルクスは「宗教はアヘンだ」と言いましたが、今はやりのスピリチュアル系とか、江原なんとかさんの霊の話とかも一種の大麻かアヘンと同じではないかと感じます。心の隙間に入り込んで安らぎと陶酔を与えてくれるのでしょう。それで世の憂さを晴らせればいいじゃないかという考えもあるでしょうが、大麻やアヘンの恐いところは、現実の自分がどんどん見えなくなっていくことです。現実の自分は、欲しがり虫や怒り虫や愚か虫がうごめきまわって、してはいけないことをしたり、言ってはいけないことを言ったり、思ってはいけないことを思ったりしているのに、そしてそのことで人を傷つけているのに、それには眼を閉ざして酩酊しているのです。

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