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『歎異抄』を読む(その148) ブログトップ

10月11日(木) [『歎異抄』を読む(その148)]

 親鸞は厳しく本願ぼこりを誡めていますが、それは決して「悪いことをしたら往生できません」ということではありません。もしそうなら、われらのような浅ましいものは往生できるものではありません。しかし、弥陀の本願はどんな悪人も往生できるというものですから、悪いことをしたからといって浄土から締め出されるのではありませんと唯円は言います。そしてこう続けます。
 第3段です。
 また、うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなひをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり。さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべしとこそ、聖人はおほせさふらひしに、当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏もうすべきやうに、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよほすゆゑなり。されば、よきこともあしきことも、業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ、他力にてはさふらへ。
 「海や川に網を引き、釣りをして世渡りをしている人や、野山に猪を狩り、鳥を取っていのちを繋いでいる人も、商いをしたり、田畑を耕して世過ぎをしている人も、みな同じです。そのようになる業縁があれば、どんなことでもしてしまうものです」と聖人は仰せになりましたが、この頃は浄土を願いながら、善人でなければ念仏してはいけないかのように言い、あるいは、道場に張り紙して、これこれの悪いことをした者は道場に入るべからずなどと言うのは、外には善人面をして、内には偽りの心を抱いているのです。本願を誇りに思って罪を作るのも宿業のなせるわざです。ですから、よいことも悪いこともすべて業報にまかせて、ひとえに本願を頼めばこそ他力というものです。

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