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『歎異抄』を読む(その152) ブログトップ

10月15日(月) [『歎異抄』を読む(その152)]

 唯円は、悪いことをやめられないのを本願ぼこりだと非難する人に対して、あなたにだって煩悩の虫が巣くっているではありませんか、と言っています。「賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだける」ことを指摘しているのです。
 それにしても、何かにつけて善だ悪だと担ぎまわる習性はもうぼくらの骨の髄まで沁みこんでいます。それはある意味では当たり前で、ぼくらの社会生活は何をするのが善いことで、何をするのが悪いことなのかをはっきり区別することの上に成り立っているのです。それをやめてしまったら、途端に真っ暗闇の社会になってしまいます。ぼくらは悪が罷り通る社会に我慢ができません。
 ですから悪とは戦わなければなりません。それは悪ですと指摘して、その責任を追及しなければなりません。しかし、それと同時に、善も悪も宿業のなせるわざだという眼を持っていなければならない。
 一方で、人は自由であり、その善悪について責任を負わなければならないとしつつ、他方で人は宿業のままに操られていると見るのは、何か綱渡りのようですが、でも昔から「罪を憎んで、人を憎まず」と言われてきたのは、このことを言っているのではないでしょうか。
 人のしたことは、厳しく責任を問う必要があります。でもその人が生きていることは、そのまま許されているのです。

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