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『歎異抄』を読む(その153) ブログトップ

10月16日(火) [『歎異抄』を読む(その153)]

 第14章に進みます。2段に分けて読んでいきましょう。まず第1段。
 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと、この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏をまうさずして、命終のときはじめて善知識のをしへにて、一念まうせば、八十億劫の重罪を滅し、十念まうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。これは十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といへるか。滅罪の利益なり、いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆゑは弥陀の光明にてらされまゐらするゆゑに、一念発起するとき、金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚のくらゐにおさめしめたまひて、命終すればもろもろの煩悩罪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。この悲願ましまさずば、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだまうすところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。
 一度念仏すれば八十億劫という途方もなく長い間に犯してきた重い罪が消えると信じなさいということについて。これは、十悪・五逆という重い罪を犯した人が、日ごろは念仏しなくても、命終わる段になって善知識の教えに従い、一度念仏すれば八十億劫の重罪が消え、十度念仏すればその十倍の罪が消えて往生することができるという意味です。これは十悪・五逆の罪の重さを知らせようとして、一念十念と言っているのです。つまり念仏には滅罪の利益があるということで、われわれが信じているところには及びません。なぜなら、もうすでに弥陀の救いの光明に照らされているのですから、念仏しようと思い立つ時、金剛のように固い信心を与えられ、その時すでに必ず仏になる位、つまり正定聚の位におさめとってもらえるのです。そして命終わればもろもろの煩悩や罪障を転じて、直ちに悟りをひらくことができるのです。この悲願がなければ、このような浅ましい罪人がどのようにして生死の迷いから抜け出すことができるのかと思って、一生申す念仏はすべて如来の悲願に対する報恩であり、感謝だと思うべきです。

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