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『歎異抄』を読む(その155) ブログトップ

10月18日(木) [『歎異抄』を読む(その155)]

 経典のことばをそのまま鵜呑みにしてはいけません、それがどういう意図で説かれているかを考えなければなりません。一度念仏すれば八十億劫の罪が消え、十度念仏すれば十八十億劫の罪が消えると言っているのは、目もくらむような長い時間積み重ねてきた重い罪を知らしめようとしているのであって、決して念仏の力で罪を消すことができるというように読んではいけません。それでは自力の念仏というものになってしまいますよ、というのがこの段の趣旨です。
 では他力の念仏とは何か。それは「弥陀の光明にてらされまゐらするゆゑに、一念発起するとき、金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚のくらゐにおさめしめたまひて」ということばに表わされています。このことばは第1章に出てきた文章を思い起こさせます。
 そこではこう言われていました。「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこゝろのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」。 「一念発起するとき」と「念仏申さんとおもひたつこゝろのをこるとき」とはぴったり重なります。どこからか「源左、助くる」と聞こえてきた時です。
 それが「信楽開発の時尅の極促」(『教行信証』信巻)です。その時、金剛の信心を得て正定聚の位につくと言われます。正定聚の位というのは、必ず仏になれる位ということで、まだ仏になってはいませんが、必ず仏になることが約束された境地です。

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