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『歎異抄』を読む(その156) ブログトップ

10月19日(金) [『歎異抄』を読む(その156)]

 今生で仏になることはできません。今生で仏になれると説くのは真言密教や天台本覚とよばれる聖道門です。そうした教えとは違って浄土門はわれら煩悩具足の凡夫は今生では仏になることができないと説きます。命終ってはじめて仏になれると説きます。
 しかし命終ってから仏になれるとしても、今生ただ今はどうなのかという疑問が起こります。命ある今救ってもらいたいのに、命終ってからのことを言われても仕方がないと思うからです。親鸞はその疑問に対して、今生で正定聚の位につくのだと答えるのです。伝統的な考えでは、正定聚の位につくのも命終って後だとされてきたのですが、親鸞ははっきり「現生正定聚」を主張したのです。
 「現生正定聚」とは、今生ただ今の救いのことです。仏になるのではありません。それでは聖道門の「即身成仏」と同じになります。仏になるということは、一切の煩悩から解脱して苦しみのない境地に至ることですが、われら凡夫にそのような可能性はありません。ですから、現生で正定聚の位につくとしても、これまでと同じように煩悩は持ったままです。その点では何も変わりはありません。
 でも「そのままで救われる」という本願の声が届くことで、煩悩による苦しみが和らぐのです。煩悩が断たれた訳ではありませんから、煩悩に伴う苦しみもなくなることはありませんが、気にならないほどに和らぐのです。それをこれまで何度か鎮痛剤ということばで言い表してきました。鎮痛剤は痛みの原因を消してくれる訳ではありませんが、痛みを和らげてくれます。同じように、本願の声が届くことは、苦しみの原因である煩悩を消してくれませんが、苦しみを和らげてくれるのです。これが「現生正定聚」です。

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