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『歎異抄』を読む(その158) ブログトップ

10月21日(日) [『歎異抄』を読む(その158)]

 「報恩の念仏」をどう考えるべきでしょう。他力の念仏とは「何かのためにする」念仏ではないということですから、「報恩のためにする」念仏も他力ではなく自力になってしまうように思われます。往生のためにする念仏は自力の念仏であるように、報恩のためにする念仏も自力の念仏でしょう。
 では「報恩の念仏」とは何か。もう一度「この悲願ましまさずば、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだまうすところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり」を読んでみますと、「如来大悲の恩を報じ、徳を謝す」というのは、「こんなあさましい罪人が救われる」という喜びを表わしていると思われます。「あゝ有難い」という思いは、おのずから「南無阿弥陀仏」ということばになると言っているのです。
 「南無阿弥陀仏」とは、「どんなあさましい罪人も救われる」という本願を称えやすいことばにしたものです。その声が聞こえて胸に沁みた時、「あゝ有難い」という喜びが与えられるとともに、その喜びはおのずと「南無阿弥陀仏」という声として出ていくのではないでしょうか。それは自分が「南無阿弥陀仏」と称えていると言うよりも、「南無阿弥陀仏」が「南無阿弥陀仏」と称えていると言うべきです。
 京都の六波羅蜜寺に空也上人像があります。空也というのは念仏しながら諸国を遊行した平安時代の僧ですが、その空也が念仏を唱えると「南無阿弥陀仏」が6体の小仏となって口から出て行く姿を捉えたものです。どこからか「南無阿弥陀仏」の声が聞こえてきて、それが空也の身体を通ってまた「南無阿弥陀仏」の声として出て行く。見事な造形だと思います。

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