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『歎異抄』を読む(その159) ブログトップ

10月22日(月) [『歎異抄』を読む(その159)]

 では、第2段に進みます。
 念仏まうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜんは、すでにわれとつみをけして、往生せんとはげむにてこそさふらふなれ。もししからば、一生のあひだ、おもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛をせめて、正念に住せずしてをはらんに、念仏まうすことかたし。そのあひだのつみは、いかがして滅すべきや。つみきえざれば往生はかなふべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて罪業をおかし、念仏まうさずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。また念仏のまうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそさふらはめ。つみを滅せんとおもはんは自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてさふらふなり。
 念仏申すことで罪が消えると信じるのは、自分の力で罪を消して往生しようと励んでいることに他なりません。もしそのように念仏は罪を消すためのものであるとしましたら、一生の間心に思うことはすべて生死の迷いの世界に繋ぎとめるものですから、命尽きるまで念仏し通してはじめて往生できることになります。しかし、思いどおりに生きることができるものではありませんから、思わぬことに出会ったり、また病気に苦しめられて平静を保てずに臨終を迎えましたら、念仏することはできません。その間の罪はどのように消せばいいのでしょう。その罪が消えなければ往生はできないのでしょうか。しかし、信じるものを摂取してくださる本願を信じてお任せしましたら、どのように思いがけなく罪を犯し、念仏をしないまま臨終を迎えましても、速やかに往生することができます。また、臨終に近づいて無事に念仏することができましても、いよいよ悟りを開くのが近づいたと弥陀を頼り、その御恩に感謝する気持ちから念仏することでしょう。このように、念仏して罪を消そうとするのは自力の心であって、臨終の時に念仏しなければ往生できないと考える人の立場ですから、そこには他力の信心がないと言わなければなりません。

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