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10月24日(水) [『歎異抄』を読む(その161)]

 「おもひとおもふこと、みな生死のきづな」だとしますと、そして念仏によって生死のきづなを断ち切らなければならないとしますと、もう一瞬の隙間もなく念仏し続けなければなりません。耳なし芳一のように、ちょっとでも隙間があれば、その間の生死のきづなは残ったままとなり、それが命取りになりかねません。
 とりわけ臨終が大事です。平生はともかく臨終において念仏できるかどうか、これが勝負です。平生念仏していなくても、臨終に念仏しさえさえすれば、一生の罪はそれできれいに消されてしまうからです。逆に、平生どれほど熱心に念仏していても、臨終に取り乱して念仏を忘れてしまうと、「そのあひだのつみは、いかがして滅すべきや」ということになります。
 念仏によって生死のきづなを断ち切らなければ往生できないとしますと、こうなりますよと言っているのです。
 藤原道長は法成寺という豪壮な寺を建て、自分の指と阿弥陀仏の指を五色の糸で結わえて臨終の時を待ったと言われています。そうまでしなくてはならないほど往生に不安があったということでしょうが、その姿には何か哀れを覚えます。
 唯円は「摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて罪業をおかし、念仏まうさずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし」と言います。自分で生死のきづなを断ち切ることなどできないわれらのために摂取不捨の願があるのだから、どんなに罪深くとも、念仏できないまま臨終を迎えようとも、みんな往生できるのですと言っているのです。

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