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『歎異抄』を読む(その164) ブログトップ

10月27日(土) [『歎異抄』を読む(その164)]

 聖道門は「今生の悟り」、浄土門は「来生の悟り」。ここには余りにも大きな懸隔があり、そしてそのことからさまざまな異義が生まれてくることになります。
 そもそも、今生において煩悩に苦しんでいるのに、来生においてはじめて煩悩から解放されても何の意味もないではないかという疑問が生まれるでしょう。今苦しくてたまらないのに、来生に救われると言われても何の慰めにもならないのではないかと。
 いや、もっと根本的に、来生って何だよという思いがあります。あの世なんてあるの?という疑問です。
 死んだらどうなるのだろうと考えるのはごく自然なことです。孔子という人は「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と言ったことで有名です。生きることすら知らないのに、どうして死について知っているだろうということです。死んだらどうなるかなんて考えても仕方がない、そんな暇があったらどう生きるかを考えるべきだと言うのです。なるほどもっともですが、そうは言っても死についてああでもない、こうでもないと考えてしまいます。それが人間というものです。
 ぼくらは、死んだらあの世というところに行って、そこで死んだ父や母と会える、何となくそんなふうに思っています。仏教ではこんなふうに説かれます。死んだ後四十九日間は中有(ちゅうう)をさ迷い、その後は畜生になったり、餓鬼になったり、あるいはまた人間になったり、場合によっては地獄におちる。そしてそれが繰り返されると。これが輪廻の教えです。ところが、往生するというのは、こうした輪廻の世界から抜け出して、仏の世界に行かせてもらうということです。成仏するということです。
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