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『歎異抄』を読む(その168) ブログトップ

10月31日(水) [『歎異抄』を読む(その168)]

 「来生」というのは、「今生」の本質を死んでから後の世界に投影しているのだということを、「さなぎと蝶」の関係から考えているところです。
 蝶から「あなたはそのままで蝶ですよ」と言われたさなぎは、「滅相もない、わたしはこんなに見苦しいさなぎであって、あなたのような見目うるわしい蝶ではありません」と答えることでしょう。
 それでも重ねて「いや、あなたはさなぎの姿をまとっているだけで、実はわたしと同じ蝶なのです」と言われたら、そのことばを「そうか、今はさなぎでも将来蝶になれるのか」と捉え直してようやく受け入れることができます。
 このように「そのままですでに蝶である」という現在の本質は、現実の姿と余りに激しく矛盾しますから、それを将来に投影して「これからのちに蝶になる」と受け取り直すしかないのです。
 「来生に仏になる」と「今生ですでに仏である」とは別のことではありません。ただぼくら衆生としては「来生に仏になる」としか言えず、「今すでに仏である」などと言えばとんでもない妄言になるのです。
 禅では(例えば鈴木大拙氏なら)「今すでに仏である」と言い切るのでしょうが、浄土では(例えば曽我量深氏なら)あくまで「来生に仏になる」としか言えません。

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