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『歎異抄』を読む(その170) ブログトップ

11月2日(金) [『歎異抄』を読む(その170)]

 どうやら「今生の悟り」を主張する人たちは、その根拠のひとつとして親鸞の和讃を持ち出していたようです。それが『高僧和讃』の「金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける」というものですが、この中の「ながく生死をへだてける」をどう見るかということが問題です。
 唯円さんはこれを「六道に輪廻すべからず」と解釈します。死んだ後、もう畜生や人間に生まれ変わることなく、浄土に往生させていただくと理解する訳です。あくまでも来生のことであって、これを今生に悟りを開くなどと解釈するのは「あはれにさふらふ」ということになります。
 しかし生死ということばは涅槃の反対語として使われます。涅槃とは悟りを開いて一切の苦しみから解放された境地を指しますから、生死とはその反対に煩悩に苦しむことに他なりません。としますと、「ながく生死をへだてける」を煩悩に苦しむことから解放されると受け取るのも一概に間違っているとは言えなくなります。こうして先の和讃を、信心が定まったその時に、生死の迷いから離れ煩悩から解放される、つまり今生に悟りを開くと読むこともできる訳です。
 ことはかなり微妙だと言わなければなりません。前にこう言いました、「来生に仏になる」と「今生ですでに仏である」とは別のことではないが、われら衆生からすれば「来生に仏になる」としか言えず、「このままですでに仏である」などと言えば、とんでもない妄言になると。もう一度ここからとらえかえしてみましょう。

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