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『歎異抄』を読む(その171) ブログトップ

11月3日(土) [『歎異抄』を読む(その171)]

 「そのままで仏である」とは仏のことばとして聞こえてくるのであって、決してぼくら衆生の発することばではありません。それは「〈あなた〉は〈そのまま〉で仏です」と聞こえるのです。それを「〈わたし〉は〈このまま〉で仏です」としてしまいますと、「あはれにさふらふ」ということになります。「わたしは」と言いたいのであれば、「わたしは来生に仏となる」としか言えません。
 では、「弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける」をどう読むべきでしょう。唯円さんの言うように「来生に仏となる」と読むべきでしょうか、それとも「今生ですでに仏である」と読むべきでしょうか。この文の主語を「わたし」と見るか「弥陀」と見るかによります。「わたし」でしたら「来生に仏となる」でしかありませんし、「弥陀」でしたら「今生ですでに仏」と解釈して問題ありません。弥陀からみれば、一切の衆生はそのままで仏なのです。
 「即身成仏」の誤りは、仏の立場からしか言えないことを衆生が言うところにあります。「そのままで仏」を「このままで仏」としてしまうからいけないのです。ぼくらはあくまで「そのままで仏」と聞かせてもらえるだけです。それを「このままで仏」などと言うものですから、とんでもない妄言になってしまうのです。
 ぼくらが言えるのは「今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく」ということだけです。しかしなおも「かの土って何だよ?」、「来生なんてあるのか?」という声がしつこく付きまとってきたら…。

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