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『歎異抄』を読む(その172) ブログトップ

11月4日(日) [『歎異抄』を読む(その172)]

 「そのままで仏」の声が聞こえてきた時のことを考えてみたいと思います。
 その声はぼくらの心にある重要な変化を与えてくれます。これまでは煩悩の中でもがきながら、それが煩悩の中であることに気づいていませんでした。トンネルの中を走りながら、それがトンネルの中だと知らなかったのです。ところが「そのままで仏」の声は、煩悩の中でもがいているという事実、トンネルの中にいるという事実を明らかにしてくれます。そして、これは煩悩だ、これはトンネルの中だと気づくことで、それへの囚われを取り払ってくれるのです。
 煩悩の虫に「欲しがり虫」「怒り虫」「愚か虫」がいました。若者はよく「キレた」と言いますが、これは「怒り虫」が突如外へ躍り出てきたということでしょう。ぼくも時々キレます。前にも言ったことがありますが、車に乗っていて、誰かが無体な割り込みをしてきた時など、自分でも驚くほど腹が立ちます。助手席の妻が「どうしてそんな些細なことで怒っているの?」と諌めるほど無性に腹が立つのです。
 腹が立つというのは不快なものです。快適なドライブが一挙に不愉快になります。それは分かっていながらどうしようもありません。そんな時、あっ、また「怒り虫」のヤツが暴れているな、と思うだけで気持ちが軽くなります。自分の心の中には「怒り虫」という厄介な虫が棲んでいて、普段は大人しくしているのに、時々外に出てきて暴れるのだと思うと不思議に不愉快さが和らぐのです。
 これは怒りに囚われなくなったということではないでしょうか。「怒り虫」の存在に気づかないでいると、怒りの感情に囚われたままです。ですからいつまでも怒りが収まりません。ところが気づきは囚われから解放してくれるのです。

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