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『歎異抄』を読む(その173) ブログトップ

11月5日(月) [『歎異抄』を読む(その173)]

 怒りに囚われているというのは、怒りの視線が無体な割り込みをしてきた相手に向かっている状態です。その相手に囚われているのです。視線が相手に囚われ続けている限り、怒りは収まらないでしょう。ところが、ふとその視線が自分の内に向かい、あっ、また「怒り虫」のヤツが、と気づきますと、それまでの怒りが急に軽くなるのです。
 それで怒りがなくなる訳ではありません。しかし不思議に和らぐのです。
 怒りを引き起こしたのは割り込みをしてきた相手でしょう。でも、それは「怒り虫」が蠢きだすきっかけを与えただけで、怒りの根源は「怒り虫」にあるのです。「怒り虫」さえいなければ、どんな無理無体なことをされても腹が立つことはないでしょう。でも如何せん、どんな人にも「怒り虫」がいます。そして何かきっかけがあれば躍り出てくるのです。それが衆生として生きるということです。このように、生きるということは煩悩の中でもがくことだと自覚することで、依然として煩悩の中でもがきながらも、それに囚われることがなくなるのです。
 煩悩に囚われなくなりますと、それに伴う苦しみが和らぎます。煩悩の虫は、その存在に気づきませんと勝手に暴れまわりますが、「あっ、またあいつが」と感づかれますと、スゴスゴ引き下がっていくようです。こんなふうに煩悩の虫がいても、大人しくしていてくれれば、いないのとさほど変わりはありません。
 とすれば、たとえ来世なんてなくてもいいではありませんか。もう「かの土」を待つ必要なんかありません。もうすでに救われているのですから。即得往生があれば十分です。

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