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『歎異抄』を読む(その174) ブログトップ

11月6日(火) [『歎異抄』を読む(その174)]

 第16章は「廻心(えしん)」ということ、本願を聞かせていただいた瞬間の「自力のこころから他力の気づきへの廻心」についてです。
 2段に分けて読んでみます。まず第1段。
 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあひて、口論をもしてはかならず廻心すべしといふこと、この条、断悪修善のここちか。一向専修のひとにをいては、廻心といふこと、ただひとたびあるべし。その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、日ごろのこころにては、往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、廻心とはまうしさふらへ。一切の事に、あしたゆふべに廻心して、往生をとげさふらふべくば、ひとのいのちは、いづるいき、いるいきをまたずして、をはることなれば、廻心もせず、柔和忍辱のおもひにも住せざらんさきに、いのちつきば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおはしますべきにや。
 信心を持っている人が、思わず腹を立てたり、悪いことをしてしまったり、同じ信心を持っている人と口論をしたりすると、その都度廻心しなければならないということ、これは悪を断ち善を行うことが何より大事という趣旨でしょうか。一向専修の人にとって、廻心はただ一回限りのことです。その廻心とは、これまで本願他力の真実の教えを知らなかった人が、阿弥陀仏の智慧を賜って、これまでの心のあり方では往生できないと思って、その心を転換して、本願にもたれかかろうとすることこそ廻心と言うのです。一つひとつのことに、朝に夕に廻心して往生することができるのでしたら、人の命は出る息が入る暇もなくあっけなく終わるものですから、廻心もしないで柔和で耐え忍ぶ心もないまま命が尽きてしまいますと、阿弥陀仏の摂取不捨の願いは空しくなってしまうのではないでしょうか。

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