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『歎異抄』を読む(その180) ブログトップ

11月12日(月) [『歎異抄』を読む(その180)]

 では第2段に進みます。
 くちには願力をたのみたてまつるといひて、こころには、さこそ悪人をたすけんといふ願不思議にましますといふとも、さすが、よからんものをこそ、たすけたまはんずれとおもふほどに、願力をうたがひ、他力をたのみまゐらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もともなげきおもひたまふべきことなり。信心さだまりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあをぎまゐらせば、自然のことはりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねにおもひいだしまゐらすべし。しかれば念仏もまうされさふらふ。これ自然なり。わがはからはざるを、自然とまうすなり。これすなはち他力にてまします。しかるを、自然といふことの別にあるやうに、われものしりがほにいふひとのさふらふよしうけたまはる、あさましくさふらふなり。 
 口では本願の力を頼むと言っていましても、実際に心の中では「いくら本願の不思議な働きは悪人をこそ救うといっても、やはり善人の方が優先的に救われるのだろう」と思うものです。そんなふうに本願の力を疑い他力を頼む気持ちに欠けるところがありますと、真の浄土ではなく仮の浄土にしか往生できません。それは何とも嘆かわしいことではありませんか。信心が定まりましたら、往生はすべて阿弥陀仏のおはからいですることですから、そこには自分のはからいは一切ありません。わが身がどのように悪かろうと、いよいよ本願の力におすがりするしかないと思いますと、自然と柔和で耐え忍ぶ心も出てくるものです。すべてのことにつきまして、往生には、こざかしい思いを捨てまして、ただほれぼれと阿弥陀仏の御恩の深さをいつでも思い起こしてみるべきです。そうすれば自ずと念仏も口をついて出ます。これを自然というのです。自分のはからいをまじえないことが自然です。そしてそれが他力です。ところが、自然とは何かもっと別のことであるかのように物知り顔に言う人がいるようですが、何とも嘆かわしいことです。

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