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『歎異抄』を読む(その184) ブログトップ

11月16日(金) [『歎異抄』を読む(その184)]

 弥陀のおはからいに任せきる、これが「あるがまま」、つまり「自然」です。そしてそれが「他力」ということです。でも、「あるがまま」に車を運転していてはすぐ事故を起こすに決まっています。いつも細心の注意を払いながら、次の交差点では直進するのか、右折するのか、それとも左折するのか「はからわ」なければなりません。こうして常に「あるべき」道を選択しながら車を前に進めるというのが生きるということです。
 一方では「あるがまま」で救われていると聞こえてきます。でも他方では常に「あるべき」道を選択しなければならない。ぼくらはこの「あるがまま」と「あるべき」との狭間で生きているのです。
 ぼくらが「このままでは救われていない」と思いつつ、同時に「このままで救われている」などと言えば、これはどうしようもなく矛盾しています。でも、ぼくら自身は「このままでは救われていない」と思うのに、どこかから「そのままで救われている」という声が聞こえてきて、その声が救われていない苦しみを和らげてくれるのです。何とも不思議としか言いようがありませんが、その不思議を実際に生きているのです。
 さて、『歎異抄』も残すところ17章と18章だけとなりました。17章は化身土、あるいは辺地、懈慢(けまん)、胎生(たいしょう)などと呼ばれる仮の浄土が説かれることの意味についてです。真の浄土とは別の方便の浄土とは一体何か、いや、そもそも浄土とは何かがテーマです。そして18章では、真の仏には色も形もないということ、色や形がある仏は化仏にすぎないということが説かれます。そもそも真の仏とは何かが問題となり、さらには「布施」という現実的で生々しい問題がテーマとなります。

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