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『歎異抄』を読む(その185) ブログトップ

11月17日(土) [『歎異抄』を読む(その185)]

 では17章です。
 辺地の往生をとぐるひと、つひには地獄におつべしといふこと、この条、いづれの証文にみえさふらふぞや。学生たつるひとのなかにいひださるることにてさふらふなるこそ、あさましくさふらへ。経論聖教をば、いかやうにみなされてさふらふやらん。信心かけたる行者は、本願をうたがふによりて、辺地に生じて、うたがひのつみをつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそうけたまはりてさふらへ。信心の行者すくなきゆゑに、化土におほくすすめいれられさふらふを、つひにむなしくなるべしとさふらふなるこそ、如来に虚妄をまうしつけまゐらせられさふらふなれ。
 辺地に往生する人は、結局は地獄におちるのだなどということは、一体どの証文に出てくるのでしょうか。学問を自慢する人の間で言われているようですが、何とも哀れなことです。経典や論釈に説かれている教えをどのように心得ておられるのでしょうか。信心に欠けるところがある人は、本願を疑っているものですから辺地という仮の浄土に生まれ、そこで疑いの罪を償ってから、真の浄土で悟りをひらくことができるのだとお聞きしています。本当の信心を持っている人は少ないものですから、疑いをもっている多くの人に化身土への往生をすすめられていますのに、化身土へ往生しても結局は空しくなってしまうなどと言うのは、如来に嘘をつかせることになってしまいます。

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