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『歎異抄』を読む(その186) ブログトップ

11月18日(日) [『歎異抄』を読む(その186)]

 ここで唯円が取り上げているのは「辺地の往生をとぐるひと、つひには地獄におつべし」という異義ですが、これを分かりやすく言い直せば「辺地や胎生などと呼ばれる仮の浄土は、念仏はしていても真実の信心をもっていない人が往生するところとされますが、本当の浄土に往生するためには真の信心をもたなければならないことを言うために説かれているだけです」ということです。この考えでは「往生には真実の信心が肝心ですから、自力の念仏では往生できませんよ」という結論になります。それが「つひには地獄におつべし」ということばになるのでしょう。
 経典にはこんなふうに書いてあります。「念仏をしてかの国に生まれたいと願っているが、本願に疑いを持っている者は往生しても宮殿の中に五百年間留まり、仏に会うことができない。これを胎生と言う」と。それに対して、本願を疑いなく信じる者は、往生するや直ちに蓮華に座り仏に会うことができます。胎生というのは、ぼくらが命を授かっても十月十日は母胎の中で過ごすように、かの国に往生できても五百年という長い間仏の姿を見ることができないことを指しています。このように、念仏をしたとしても、本願を疑いなく信じるかどうかで往生の仕方が異なると言うのです。
 自力の念仏か他力の念仏かで往生のあり方が異なるというこの教えをどう捉えるか、これがここのテーマです。「辺地の往生」なんて方便として説かれているだけで、自力の念仏では往生できないと考えるか、それとも、たとえ本願に疑いを抱いたとしても、それで往生できない訳ではないが、ただ疑いがとけるまではほんとうの救いはないと考えるか。これがここで取り上げられている問題です。

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