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『歎異抄』を読む(その187) ブログトップ

11月19日(月) [『歎異抄』を読む(その187)]

 改めて確認しておきたいのは、念仏にせよ信心にせよ、それは決して往生の条件ではないということです。念仏しなければ、あるいは信心がなければ往生できないと書かれた本に出会うことがありますが、それでは阿弥陀仏による「平等の救い」が台無しになってしまいます。往生は無条件でなければ「平等の救い」ではありません。ですから、たとえ本願に疑いを抱いたとしても、それが往生の支障になることは決してありません。としますと「辺地の往生」とは一体何でしょう。
 今一度トンネルの比喩を持ち出します。ぼくらは物心ついた時にはすでに暗闇(苦悩のことです)の中にいました。以来ずっとその中をさまよい続けています。ところがある時「あなたは今暗闇に閉ざされていますが、それはあなたがトンネルの中にいるからで、外はあふれんばかりの陽光(救いのことです)が降り注いでいますよ。あなたにはそれが見えないだけです」という声がするのです。物心ついてからこの方、暗闇の世界しか知らないぼくらには何とも不思議な声です。この世界には「外」があって、そこには陽光があふれている!?そんなこと俄かには信じられません。
 でも、その声は不思議にも全身に沁み渡ります。そして身は暗闇に閉ざされていても、心はもう陽光に包まれているように軽くなるのです。これが本願を信じるということです。「そのままで救われている」という声が心に届くということです。さてしかし、この声が聞こえてきても、それを受け入れることのできない人も少なからずいることでしょう。目の前には暗闇しか見えないのに、その「外」では陽光が燦燦と降り注いでいるなんて、そんなバカなことはないと頑なに耳を閉ざす人がいるのは当然です。

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