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『歎異抄』を読む(その190) ブログトップ

11月22日(木) [『歎異抄』を読む(その190)]

 高校教師時代に次々と問題を起こす生徒に手を焼いていた頃のことです。ある同僚の先生に相談を持ちかけましたら、こう言われました、「そんな時ぼくは何もできません。ただその生徒の傍についていてやるだけです」と。
 自暴自棄になって荒れ狂っている生徒にはどんなことばも届きません。ですから、つい「もう学校をやめちまえ」とか「勝手にしろ」と言いたくなります。でも、そんなふうに匙を投げずに、じっとその生徒の傍にいてあげるのは想像以上に大変です。
 どうしてそんなことができるのかと考えてみますと、やはりその生徒を根本のところで信じているからに違いありません。その生徒も「そのままで救われている」はずだと思うからです。今の彼には「そのままで救われている」という声は届いていませんが、そうではあっても「そのままで救われている」のですから、そのことばが届くまでじっと待つしかありません。
 辺地の往生とはそのことではないでしょうか。
 「そのままで救われている」のに、「そのままで救われている」という声に疑いを持ってしまう。そんな人は「うたがひのつみをつぐのひてのち、報土のさとりをひらく」しかありません。疑いの氷が溶けるまでじっと傍で待ってもらえるのです。それにしても、「お前なんか地獄に落ちればいい」とは言わずに、「お前さんの疑いが晴れるまで傍で待っていて上げるよ」と言ってもらえるのは何と有難いことでしょう。

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