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『歎異抄』を読む(その191) ブログトップ

11月23日(金) [『歎異抄』を読む(その191)]

 では第18章に移ります。
 仏法のかたに施入物の多少にしたがひて、大小仏になるべしといふこと、この条、不可説なり。様々比興のことなり。まづ仏に大小の分量をさだめんことあるべからずさふらふ。かの安養浄土の教主の御身量をとかれてさふらふも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらひて、長短方円のかたちにもあらず、青黄赤白黒のいろをもはなれなば、なにをもてか大小をさだむべきや。念仏まうすに化仏を見たてまつるといふことのさふらふなるこそ、大念には大仏をみ、小念には小仏をみるといへるか。もしこのことはりなんどに、はしひきかけられさふらふやらん。かつはまた檀波羅蜜の行ともいひつべし。いかにたからものを仏前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなばその詮なし。一紙半銭も仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて、信心ふかくば、それこそ願の本意にてさふらはめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひをどさるるにや。
 お寺へのお布施の多少によって、大きな仏になったり小さな仏になったりすると言いますが、とんでもないことです。何とも浅ましいことです。まず仏に大小の分量を定められるはずがありません。経典に阿弥陀仏の体の大きさが説かれていますが、それはあくまで方便のことです。真如を悟って仏になるのですから、そこには長短や方円の形もなく、青黄赤白黒の色もありません。一体何をもって大小というのでしょうか。念仏して化仏を見させていただくことを、経典には「大きな念仏には大きな仏を、小さな念仏には小さな仏を見る」と説いています。そのことに関連づけて言われているのでしょうか。次に布施の行ということが言われます。しかし、どれほど宝物を仏前に捧げ、師に施しものをしても、信心が欠けていては何にもなりません。全く何もお布施をしなくても、阿弥陀仏に心を捧げて信心が深ければ、それこそ本願にかなうものと言うべきでしょう。お布施は多くなくてはならないなどというのは、仏法にことよせて、世間的な欲心から、同朋を脅しているのに違いありません。

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