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『歎異抄』を読む(その201) ブログトップ

12月3日(月) [『歎異抄』を読む(その201)]

 「こちらから」何かを手に入れようとすると、必ず人によって差が出てくるのですが、問題は信心です。親鸞の思想の核心は「たまはりたる信心」にあります。「こちらから」手に入れるのではなく、「向こうから」賜るのが信心です。「そのままで救われている」という声が「向こうから」聞こえてくるのです。この声が「南無阿弥陀仏」です。ぼくらはその声を「ただほれぼれと」聞かせてもらうだけですから、そこに何の差もあるはずがありません、ひとつです。どんな人にも同じ「南無阿弥陀仏」の声が聞こえるだけです。だからこそ「源空が信心も如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、さればただひとつなり」と言えるのです。
 しかしここで疑問が生まれます。「こちらから」何かを手に入れようとすると、人によって差がでて、「向こうから」与えられるものには差がないと言うけれども、「向こうから」与えられるものだって、人によって差があるのではないかという疑問です。学校の例で言いましたように、成績が一番の子もビリの子も平等に扱われなければなりませんが、実際は一番の子は可愛がられ、ビリの子は邪けんにされてしまうものです。こんなふうに、「向こうから」与えられるものであっても、生徒によって差が生まれてしまうのではないでしょうか。えこひいきがあるのではないでしょうか。
 生徒はよく「先生はえこひいきしている」と不満をもらすものです。この不満は「先生はお気に入りの子ばかりチヤホヤして、ぼくにはちっとも目をかけてくれない」というものですが、これは他の誰かさんと自分とを比べています。誰かさんにはたくさんの愛が与えられているのに、自分には少ないじゃないかと。もうひとつ別の例を上げます。親からもらう小遣いが兄と自分とで違うことに気づいた弟が「そんなのえこひいきだ」と文句を言う場面です。こんな例を考えますと、「向こうから」与えられるものでも、人によって差があるのではないかと思います。

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