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『歎異抄』を読む(その209) ブログトップ

12月11日(火) [『歎異抄』を読む(その209)]

 「私一人のため」と「みんなのため」は矛盾すると考えるのが普通です。でもそれは「こちらから」見ているからです。「こちらから」何かを手に入れようとしますと、「私一人のため」と「みんなのため」は正面からぶつかります。「私一人のため」ということは、何かをひとり占めしようとすることで、「みんなのため」ということは、みんなで分け合おうとすることですから、折り合うわけがありません。でも「向こうから」おのずと何かがやってくる場合は、「私一人のため」と「みんなのため」とは全く矛盾しません。みんながそれぞれ「私一人のため」と思うのですから。
 「こちらから」は差別、「向こうから」は平等。
 「こちらから」何かを手に入れようとしている限り平等なんてどこにもありません。すべてが差別に彩られています。どうしてかと言いますと、「こちらから」見ている「わたし」自身が、他の「わたし」たちとは異なる独自な存在でなければならないからです。「わたし」が他の「わたし」たちと全く平等で、異なるところが何もないとしますと、それはもう「わたし」ではありません。かけがえのない「わたし」とはそういう意味です。同じ「わたし」は一人としていないということです。
 ところが「向こうから」おのずと何かがやってくる時に差別はありません。すべての人に平等にやってきます。どうしてかと言いますと、その時にはもう「わたし」と他の「わたし」たちの垣根がないからです。陽光はわれもひともなく世界に降り注いでいます。ですから、「われもひともなく平等に」と言うのと、「ひとへに親鸞一人がためなりけり」と言うのは同じことです。ぼくらは海辺で降り注ぐ陽光を浴びる時、太陽をひとり占めしているように感じるものです。

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