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『歎異抄』を読む(その210) ブログトップ

12月12日(水) [『歎異抄』を読む(その210)]

 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」についてもう少し考えてみようと思います。
 弥陀の五劫思惟の願は、それを親鸞が信じようが信じまいが、そんなことには関係なく存在するのではありません。親鸞が信じることではじめて存在します。だから、それは親鸞一人がためにあるのです。弥陀の五劫思惟の願を信じない人にはそれは存在しません。そして、それを信じる人が他にどれほどいようと、それによって親鸞にとって存在することにはなりません。親鸞が信じてはじめて存在するのです。
 科学は客観性がいのちです。万有引力の法則が科学の法則であるのは、誰にとっても成り立つからです。もちろん、それを知らない人はいます。というより、ニュートンがこれを発見するまでは誰も知らなかった。それでも法則として成り立つということは、誰でもある方法でそれを知ることができるということです。科学の客観性とは、あることを知ろうが知るまいが、それとは関係なく存在するということです。
 万有引力も、それを知らない人にとっては存在しないのに等しいとは言えます。ニュートン以前の人たちにとって、万有引力なんて存在しないに等しかった。でも、間違いなくそれは存在しました。ただ知らなかっただけのことです。ところが、弥陀の本願は、それを信じない人にとっては存在しない。存在しないに等しいのではありません、ほんとうに存在しないのです。それは信じることではじめて存在するのです。
 信じる人には存在し、信じない人には存在しない。これはしかし何だか変だなと感じます。

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