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『歎異抄』を読む(その223) ブログトップ

12月25日(火) [『歎異抄』を読む(その223)]

 その背景として二つのことが考えられます。一つは戦前の「転向」です。権力の弾圧で左翼活動を離れた人たちが向かう先は色々でしたが、その中に宗教とりわけ親鸞への道がありました。転向後は『歎異抄』に心の拠りどころを求めるという道筋がつけられていったのです。
 もう一つはマルクスの宗教観です。マルクス主義は一時の勢いを瞬く間に失ってしまいましたが、マルクスその人は依然としてぼくらの心の中に息づいています。マルクス的感性とも言うべきものが戦前から引き続いて生きているのですが、そのひとつが「宗教はアヘンだ」ということばでしょう。宗教は現実の矛盾を感じなくさせ、幻想の中で慰めを与える役割を果たしている、というこのことばは色あせていません。
 そんなこんなで、親鸞と聞くと「転向」や「アヘン」といったイメージが付きまとうのだと思います。宗教と政治は不幸な二律背反の関係にあるのです。
 しかし果たして宗教は「現実からの逃避」でしょうか。そのような宗教があることは認めた上で、そもそも宗教はそのようなものかと問うてみたいと思うのです。ぼくの頭に浮かぶのは、むしろ旗に「南無阿弥陀仏」と書いて領主に立ち向かっていった一揆衆のことです。今のぼくには一向一揆の中にいた人たちの胸のうちを語るだけの準備がありませんが、彼らにとって念仏とは何だったのか、念仏と現実がどのように絡み合っていたのかを推測してみたいのです。

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