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1月6日(日) [はじめての親鸞(その10)]

 何とかしなければと思い決然と家を出た釈迦と違って、ぼくらは何とかしなければとは思うものの、どうしていいか分からずグズグズと日を過ごしています。そして誰か助けてくれないかと思います。物欲しげにあたりを見回すのです。そのとき何を求めているのかと言いますと、「このまま生きていていいのだろうか」という厄介な問いに対する答えです。もっと短く「なぜ生きる」への答え、これを求めているのです。「ぼくが生きている意味は何だよ。誰か教えてくれよ」と。
 自分では答えが見つからないから、誰かに求める。これは他力ではなく自力です。求めているものは他力でも、それを求めることは自力。
 くどいようですが、何であれそれを求めるということは、自分で手に入れようとしているということです。直接手に入れるか、それとも誰かの手を介して手に入れるかの違いはあっても、自分で手に入れようとしていることに変わりはありません。普通は直接手に入れることを自力と呼び、誰かの手を介して手に入れることを他力と言いますが、どちらも自分で手に入れようとしている点において同じく自力です。
 考えてみますと、ぼくらが生きるということは、おびただしいものを求めるということ、そして自分で手に入れるということです。赤ちゃんは何もしなくてもすべて与えられているように見えますが、とんでもない、必死に求めているのです。声を限りに泣き叫んで欲しいものを求め、そして首尾よく手に入れているのです。

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