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1月7日(月) [はじめての親鸞(その11)]

 ぼくらが生きるということは、さまざまなものを求めることであり、そして自分で手に入れるということですが、どんなものでも求めることができるでしょうか。
 言うまでもなく、ぼくらが手に入れることができるのはささやかなものです。プールつきの豪邸など、ぼくら庶民の手に入るはずがありません。でもそれは自分の力が及ばないからで、もし宝くじにでも当れば、手に入れることも不可能ではありません。
 しかし、力のあるなしにかかわらず原理的に求めることができず、したがって絶対手に入れることができないものはないでしょうか。絶大な権力とあり余る金があれば、何でも求めることができるのでしょうか。
 自分に絶大な力さえあれば、ほとんどのものは手に入れることができそうに思えますが、でも例えば「愛」はどうでしょう。ある人の愛が欲しい。どんなことをしても手に入れたい。しかし愛はこちらから手に入れることができるものでしょうか。
 愛がこちらからゲットできるものだとしますと、それは交換されるものであっても贈与されるものではなくなります。こちらが必死の努力をして、その見返りに愛が与えられるのであるとしますと、それは、ぼくはこれをあげるから、きみはそれをくれるという交換(ギブ・アンド・テイク)です。
 しかし純粋な愛は贈与されるものであって、交換されるものではありません。ジャック・デリダは贈与について大事なことを教えてくれます。

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