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1月12日(土) [はじめての親鸞(その16)]

 居場所がなくなったら、新しい居場所をどこかに探せばいいじゃないかという声が聞こえてきます。何も学校だけが生きる場じゃないよ、もっと別のところに自分の居場所を見つければいいのだよと。でも、そんなふうにどこかに居場所はないかと探しに出かけられる人は、もうすでに居場所のある人です。自分のホームはちゃんとあって、そこを拠点にしてセカンドハウスを探しに出かけているのです。
 ここがダメなら、あそこがあるさ、というのではなく、この世のどこにも居場所がなくなってしまったら、もう自分では何ともなりません。自分の「居る」こと自体が危機に瀕しているのですから、自分の存在が透明になってきているのですから、「自分で」ということ自体がもはや無効だということです。
 親に虐待されたり無視されたりして亡くなる子どものことが報道されますと、何とも言えない気持ちになります。この間、5歳の男の子が実の母親にかまってもらえず餓死したというニュースがありました。たった6キロの体重で、体にはあざもあったそうです。
 その子の何が哀れかと言って、居場所がどこにもなかったことが哀れでなりません。居場所さえあれば、まだ5歳だとしても、そしてどんなにひどい目にあっていたとしても、食べ物の一片ぐらいはどこかで見つけてこられたかもしれません。しかし、如何せん、その子にはどこにも居場所がなかった。彼は食べ物が与えられないより前に、「居る」こと自体が与えられなかったのです。

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