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はじめての親鸞(その20) ブログトップ

1月16日(水) [はじめての親鸞(その20)]

 また教師時代のことです。次々と問題を起こす生徒のことで困り果て、恩師を訪ねたことがあります。どうしたらいいでしょうの問いに、恩師は「きみはその生徒を更生させようとしているんじゃないか」と言われたのです。ぼくは赤面しました。図星だったからです。
 ぼくはぼくの力でその生徒を救おうとしていたのです。教師は問題生徒を更生させるのが仕事だと思っていたのです。とんでもない思いあがりでした。ぼくは池でおぼれかけている生徒を岸の上から引っ張り上げようとしていたのですが、ぼくのやるべきことは池の中で彼がおぼれないよう支えながら一緒に泳ぐことだったのです。ぼくは生徒の「あなた」になろうとして、空回りしていたのです。
 「あなた」が「わたし」の「あなた」となるのが、「あなた」にとってたまたまであるように、それは「わたし」にとってもたまたまのことです。「わたし」は「あなた」に会いたくて、どれほど探し回っても決して「あなた」に会うことはできません。ところがあるときふと「あなた」に遇うことができるのです。親鸞は本願に「遇う」と言います。決して「会う」とは言いません。彼はことばを非常に大事にする人で、肝心なところではきちっとことばを使い分けています。
 「会う」と「遇う」。
 あいたくてあうのが「会う」で、思いがけずあうのが「遇う」。「会う」場合は、前もって誰に会うかは分かっています。当たり前です。「あの人」に会いたいから会うのです。ですから誰かに会うときは、事前に連絡したり、それができなくても相手の行動を予測して、どこに行けば会えるかを考えます。それもできないと大変です。あちこち探しまわらなければなりません。

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