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1月18日(金) [はじめての親鸞(その22)]

 もう少し「会う」と「遇う」について考えてみます。
 「会う」には相互性があります。もし太郎が次郎に会うことができるなら、当然次郎も太郎に会うことができます。何らかの事情で太郎が次郎に会うことはできるが、次郎は太郎に会うことができないという事態になったとしましても(たとえば刑務所に入れられている太郎に次郎は面会に行けますが、塀の中の太郎は次郎に会いに行けません)、それはあくまで「あってはならない変則的事態」です。それが変則であることは「会う」ことにおいては相互通行が原則であることを裏書きしています。
 では「遇う」はどうでしょう。あるとき思いがけず「あなた」に遇うことができたとしまして、そのとき「わたし」と「あなた」の間に相互性はあるでしょうか。
 「わたし」が「あなた」に遇うということは、向こうからやってくる「あなた」に出くわすということです。「あなた」から「そのまま生きていていいよ」という声が聞こえて「わたし」は救われる。これはもう純粋に一方通行です。「あなた」から「わたし」への一方通行。
 「わたし」は「たゞほれぼれと」(これは『歎異抄』に出てくることばです)その声を聞くだけです。こうして救いは一方通行であることが分かります。救いは「あなた」から与えられるだけです。「わたし」は「あなた」に救われるだけで、「わたし」が誰かを救うことは決してできません。

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