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はじめての親鸞(その26) ブログトップ

1月22日(火) [はじめての親鸞(その26)]

 「わがもの」という思い、これは救いについても例外ではありません。釈迦のことばをこう読むことができます、「救いをわがものにしなければと執着して、動揺している人々を見よ。彼らはひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである」。
 「わが救い」が見当たらないと動揺して、どこに行けば手に入るのかと右往左往している人々、釈迦はかつての自分もその一人だったと振り返っているのではないでしょうか。ひからびた水の中の魚のように必死に「わが救い」を求め、もうこれ以上は無理と思われるほど修行を積み重ねてきた。
 でも、あるとき、ふと思った、救いを「わがもの」とみなすことが救いを妨げているのではないかと。で、彼は苦行を打ち切りました。そして河で身を清め、村の娘から乳粥をわけてもらって静かに菩提樹の根元に座ったのです。そのとき彼に大事な気づきが起こったと思われます、「わがもの」に執着することがすべての苦しみの原因だという気づき。これが無我ということです。
 「わたし」に何かが欠如しているとき、「わたし」はそれを必死に求めます。でも「わたし」そのものに欠如があるとき、もはや「わたし」の手でその欠如を埋めることはできません。「わたし」の居場所に何かが足りないとき、「わたし」はその何かを外から手に入れてくることができます。でも「わたし」の居場所そのものがなくなったとき、もう「わたし」にはどうすることもできません。それは「あなた」から与えてもらうしかない。それに気づくのが他力です。
 いかがでしょう、無我と他力、ちょっと見ただけでは何の関係もないように見えますが、実は同じことなのです。

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