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はじめての親鸞(その27) ブログトップ

1月23日(水) [はじめての親鸞(その27)]

 これまで二つのことを言ってきました。一つは「わたし」はどんなに頑張っても救いを自分で手に入れることはできないということ。二つ目は救いは「あなた」からやってくるということ。この二つは切り離すことはできませんが、便宜上二つに分けて、より踏み込んで考えていこうと思います。まず次章で「わたし」が救いを手に入れることができないのは何故かを考えます。
 では「第2章 “わたし”」です。
 第1章で、「わたし」はどんなに頑張っても自分で救いを手に入れることはできす、それは思いがけないときに「あなた」からやってくると述べました。そして釈迦の「無我」もそのことを言っているのだと。「わたし」の救いを求め、救いを「わがもの」にしようとすることが救いを遠ざけているのであり、そのように「わたし」にとらわれ「わがもの」に執着することがなければ苦しみは消え、もうすでに救いに包まれている自分を見出すことになるのだということです。
 さてしかし、どのようにして「わたし」へのとらわれや「わがもの」への執着から離れることができるのでしょうか。この世界は「わたし」という観念の上に成り立ち、「わがもの」という思いに深く浸潤されています。生きるということは、「わたし」に欠如しているものを外に求め、それを手に入れてくることです。外に出かけて何かを手に入れてくるということは、それを「わがもの」にすることに他なりません。生きることは何かを「わがもの」にすることに等しい。

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