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はじめての親鸞(その28) ブログトップ

1月24日(木) [はじめての親鸞(その28)]

 釈迦の言う「わがもの」への執着から離れるということは、生きることそのものから離れることになるように思えます。
 しかしよく見ますと、釈迦は「わがもの」にすることが苦しみの原因だと言っているのではありません。「わがもの」に〈執着する〉ことが苦しみの原因だと言っているのです。ですから問題は、いろいろなものを「わがもの」として生きながら、どのようにして「わがもの」に執着しないでいられるかということです。
 でも、「わがもの」にすることと、「わがもの」に執着することを切り離せるものでしょうか。何かを「わがもの」にすることは、取りも直さず、それを「わがもの」として執着することではないでしょうか。
 「わがもの」を誰かに奪われたときのことを考えてみましょう。それが自分にとって大事なものであれば、激しい怒りを覚え、何としても取り戻したいと思います。としますと、「わがもの」にすることと「わがもの」に執着することは同じであり、「わがもの」への執着を否定することは結局生きることそのものを否定することになるように思えます。
 そこで、「わがもの」という思いに執着するとはどういうことか、具体的な場面で考えてみます。
 「底辺校」(いやなことばです)と呼ばれる高校に赴任したときです。入試制度の歪みをもろにかぶったその高校は、どうとでもなれと自暴自棄になった生徒たちがあふれかえり、学校は見るからに荒んでいました。そのなかでもひときわ大変なクラスがありました。ぼくはそのクラスに授業に行くのが辛かった。明日はそのクラスがあると思うだけで胃の辺りがチクチクしてくるのです。

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