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1月26日(土) [はじめての親鸞(その30)]

 直接的な苦しみは生徒との諍いからきます。いつ果てるともない諍いはほんとうに苦しいものです。でも、よく見ますと、生徒との諍いに苦しみながら、生徒と諍いをしている自分に苦しんでいるのです。
 苦しみは二重構造をしていて、あることに苦しみ、同時に、そんなことに苦しんでいる自分に苦しむ。「なんで自分はこんなことで苦しまなきゃいけないのか」と苦しむのです。この二重構造は、苦しい授業を外から見られるのが苦しかったことによくあらわれています。授業そのものに苦しみながら、授業に苦しんでいる自分に苦しんでいるのです。
 「こんなはずじゃない」という思いが強くあるものですから、授業を外から見られるのが辛いのです。授業そのものに苦しんだあげく、さらに「こんなはずじゃない」という思いに苦しむ。
 「こんなはずじゃない」というのは「これはほんとうの自分ではない」ということです。ほんとうの自分は、生徒とつまらない諍いを起こすはずがないし、こんなおぞましい授業をするはずがない、これは何かの間違いだ―こんな思いがぼくを苦しませているのです。ぼくには「いっぱしの教師」としての自負があるのに、それが木っ端微塵にされてしまったという苦しみです。
 これが釈迦の言う「わたし」へのとらわれ「わがもの」への執着ではないでしょうか。「わたし」へのとらわれというのは、「ほんとうのわたし」にすがりつくことです。「わがもの」への執着とは、「ほんとうのわたしの力量」にしがみつくことです。

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