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1月28日(月) [はじめての親鸞(その32)]

 もうひとつ、病気の苦しみを考えてみましょう。ぼくの中学校以来の親友は50代で癌におかされ、一旦は手術によって復帰したのですが、再発して還暦を待たずに逝ってしまいました。彼の苦しみを推し量ってみようと思います。亡き人のことを思い出すのは供養になると言いますから、あの世で「おいおい、ひとのことを勝手に推し量るなよ」と怒ってはいないでしょう。
 彼は若い頃から将来は「うまい魚を食わせる店」を持ちたいと言っていました。その夢をついに実現し、小さいながらも洒落た小料理屋を開いてまもなくのことです、癌が彼を襲ったのは。癌という病の苦しさをぼくは知りませんが、彼の様子を見るだけでどんなにか大変だろうとおよその察しはつきます。しかし、彼の苦しみの深層には「なんでこのオレが」という思いがあったに違いありません。「さあこれから店を軌道に乗せていこうというのに、しかもまだ下の子は大学生だというのに、よりによってこのオレがなんで癌に」という苦しみです。
 ここにも苦しみの二重構造が見られます。病気そのものの苦しみと同時に、病気に苦しんでいる自分に苦しむという二重構造です。そして「なんでこのオレが」という深層の苦しみは、「わがもの」と「ひとのもの」との比較からくるのです。戦前、ある年齢になるとすべての男に召集令状がきたように、一定の年齢になるとみんなが一斉に癌にかかるとしますと、「なんでこのオレが」という苦しみはありません。あるいは同病の人が集って雑談するだけで大きな癒しが得られるのは、少なくともそこでは比較の苦しさから解放されるからです。

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