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1月30日(水) [はじめての親鸞(その34)]

 ぼくはときどき自分の虫どもは人より多いのではないかと感じることがあります。例えば、高速道路を走っていて、後ろから突然パッシングされることがあります。「邪魔だ、どけろ」ということでしょう。そんなとき年甲斐もなく腹が立ちます。「バッカヤロウ」と血圧が急騰するのです。隣の妻にたしなめられるほどいきり立ちます。それまで静かにしていた「怒り虫」が猛然と外に飛び出てきたという感じです。
 やはり煩悩は虫でしょう。としますと問題はこの虫たちをどう退治するかということです。ぼくらの小学生時代、検便という行事がありました。マッチ箱にいれた大便を検査して、その中に回虫がいるかどうかを定期的に調べるのです。いると分かったら虫下しを飲んで退治しなければなりません。
 さて、煩悩の虫どもも虫下しを飲むことで退治できないものでしょうか。
 森岡正博氏の思索を参照してみたいと思います。彼は「生命学」という新しい学問を立ち上げようと興味深い思索を展開している人ですが、煩悩を考える上でさまざまな示唆を与えてくれるのです。彼はいわゆる生命倫理について新たな切り口を模索しているのですが、その具体例として選択的中絶を取り上げてみます。「胎児に障害があることを理由に中絶することは許されるか」という問題です。
 アメリカでは中絶は大きな政治的争点ですし、わが日本でも遺伝子検査で簡単に調べることができるようになり、倫理的な問題として再浮上しています。
 この問題にはかなり複雑な歴史的経緯があるのですが、必要な範囲でごくかいつまんで言いますと、1972年に出された優生保護法改正案の中に「胎児に重い障害があるときはそれを理由に中絶できる」とする「胎児条項」がありました。これに対して障害者の会(「青い芝の会」)が声を上げました、これは障害者の生きる権利を否定するものだと。

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