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はじめての親鸞(その36) ブログトップ

2月1日(金) [はじめての親鸞(その36)]

 障害者たちは、社会の中に「障害者は生まれてこなかった方がいいのだ」という意識が蔓延していること、これが問題の根っ子にあるのだと訴えているのです。「胎児条項」はオレたちに死ねと言っているのだと。森岡氏はこれを真正面から受け止め、次のように述べます、「ひとことで言えば、“たとえ知的に劣っていようが、醜かろうが、障害があろうが、私の<存在>だけは平等に世界に迎え入れられたはずだし、たとえ成功しようと、失敗しようと、よぼよぼの老人になろうと、私の<存在>だけは平等に世界に迎え入れられ続けていると確信できる”という安心感」、選択的中絶は社会からこの一番大事なものを奪ってしまう結果になると。
 「だから選択的中絶を認めることはできない」と結論づけて終わりにしないのが森岡氏です。ところでお前はどうなのかと自分に問うのです。「自分を棚上げにしない思考」、これが彼の生命学のモットーです。で、彼は言います、自分の中にも自分の子どもは五体満足であってほしいという願いがあると。だから、もし出生前診断で胎児に障害が見つかったら中絶を選ぶかもしれない。もっと深刻なことに、障害を持つ女性すら、お腹の中の子どもには障害がないように願っているという事実があります。「内なる優生思想」はそこまで蔓延しているのです。
 「どうしてだろうか?」と考えて、誰しも真っ先に思い浮かべるのが、障害者が生きにくい社会のあり方です。障害児として生まれてきたときに予想されるさまざまな困難を考えるから、五体満足な子どもを願うのです。とすれば、社会のあり方を変えない限り問題は終わらないことになります。問題はぼくらのこころの中にあるのではなく、社会の方にあるということです。

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