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はじめての親鸞(その39) ブログトップ

2月4日(月) [はじめての親鸞(その39)]

 本稿はこの後ろめたさからスタートしました。後ろめたさとは、これまで「居心地の悪さ」とか「居場所のなさ」という言い方をしてきたものと同じで、これを何とかしたいというところからすべてははじまりました。ここまでで言えるのは、この後ろめたさは煩悩という虫たちの仕業であるということ、だからこの虫たちさえいなくなれば、もう後ろめたさも居心地の悪さもすっきりなくなってしまうということです。釈迦もそう考え、森岡氏もそう考えました。
 しかしそんなことがどのようにしてできるのか。
 一番手っ取り早いのは、わが内なる虫どもを見ないようにすることです。煩悩は、それに気づかなければ存在しないのですから。煩悩の虫たちもそれはよく心得ていて、自分たちの姿を上手に隠すすべを知っています。それが証拠に、ぼくらは他人の悪はよく見えますが、自分の悪にはなかなか気づかないものです。もう一度いじめを考えてみましょう。かなり前になりますが、爆笑問題の太田光がある番組で「いじめを根絶しなければならない」と言うことが問題の解決を遅らせているのだと発言したことがあります。
 「いじめを根絶しなければならない」と言うことは、いじめを何か特別なことだと思わせ、特殊な人間が特殊な人間をいじめているのだというニュアンスがあります。そこから、いじめを受けている生徒が、その事実を親や先生になかなか打ち明けられないという状況が生まれます。何か特別なことが自分の身に起こっているという思いが、それを言えなくさせてしまうのです。そしていじめが起こった学校がそれを隠蔽するという結果も生みます。これはおおっぴらにしてはいけない何か恥ずかしいことなのだと思わせるのです。こうしていじめの解決が遅れ、取り返しのつかない事態になってしまう。

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