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はじめての親鸞(その42) ブログトップ

2月7日(木) [はじめての親鸞(その42)]

 ともすれば、割り込みをするのは悪人で、順番を守るのは善人だと思ってしまいます。人間には二種類あって、心の捻じ曲がった悪人と、心の真っ直ぐな善人とに分かれると思うのです。そして、そう思うとき、自分は必ず善人の方にカウントされています。割り込みなどという悪いことをしないのですから。そんなとき、自分の中にも割り込みをしたいという気持ちが潜んでいるなどとは思いもしません。あいつの中には人を出し抜いて甘い汁を吸おうというどす黒い心があるが、自分にはそんな心はないと思っています。
 あいつのことはよく見えるのですが、自分の心の中は見えにくい。
 そんなふうに、わが内なる煩悩の虫どもを見なくてすむのでしたら、それはそれで幸せかもしれません。煩悩の虫どもも気をつけて見つからないように密かに行動しているのです。ところが虫どももときたまへまをして姿を見せてしまうことがあります。車を運転していて横から割り込みをされ、いつまでも腹の虫が収まらないとき、隣の妻から諌められることがあります、「何もそんなに怒らなくても」と。そんなとき、「あゝ、煩悩の虫が」と気づくのです。こうしてわが内なる煩悩の虫どもと対面し、こいつらが生きづらさの元凶であることを思い知らされるのです。
 煩悩とは「わがもの」を「ひとのもの」を比べて一喜一憂することでした。いじめにせよ、割り込みにせよ、みなこの煩悩の虫どもの仕業ですが、だとしますと、いじめ虫や割り込みの虫は一部の特殊な人の中だけでなく、みんなの中にいるのです。ただその虫が外に出てくるか、それとも内で静かにしているかの違いです。

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