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2月10日(日) [はじめての親鸞(45)]

 確かに誰かが悪いことをしたら、それはそのままで許されるようなことがあってはいけません。しっかり懲らしめられ、償われなければなりません。しかし、悪いことをした人自身はそのままで許されているのではないでしょうか。なぜなら、悪いことをするこころが潜んでいるという点ではみな同じだとすれば、あなたが許されている以上、悪いことをした人も許されているはずです。
 悪いことを「する」ことはそのままで許されませんが、悪い人で「ある」ことはそのままで許されている。古来「罪を憎んで、人を憎まず」と言われてきたのは、そういうことです。そんなのきれいごとだと言う人は、自分は善人で、あいつは悪人、全く別の世界に住んでいると思っているのです。しかし、あいつも自分も同じ煩悩の虫どもを抱えているとしますと、同じように悪人ではないでしょうか。このように考えますと、悪人正機とは、悪人であることを自覚している悪人の方が、その自覚のない悪人より救われるということになり、かなり抵抗は少なくなると思います。
 ただ、自覚のある悪人の方が自覚のない悪人より救われるのはどうしてか、これはこの段階ではまだ明らかではありません。もう少し待っていただきたいと思います。
 悪いことを「する」のと、悪人で「ある」ことをはっきり分けた上で、みんな悪人であることを見つめることが必要です。自分の中に煩悩の虫どもがいること、そしてそれが生きづらさをもたらしていることから眼をそらすべきではありません。さてこの煩悩、つまり「わたし」へのとらわれ、「わがもの」への執着からどのようにして離れることができるのか、またまたスタートラインに戻ってきました。

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