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2月11日(月) [はじめての親鸞(その46)]

 煩悩とはいろいろなものを「わがもの」とするだけでなく、「わがもの」と「ひとのもの」を比較し、「わがもの」が多いと喜び、少ないと悲嘆にくれることです。それをこんなふうに言うこともできます。ぼくらは「わがもの」をひとに与えることはできるが、ひたすら与え続けることはできないと。ぼくらが「わがもの」をひとに与えることができるのは、その見返りに「ひとのもの」が与えられるからです。与えられるから与える、与えられないと与えることができない。
 第1章で「贈与と交換」について触れましたが、ぼくらは交換することはできても、贈与することはできないということです。そんなことはないだろう、母親が赤ちゃんに愛を注ぐのは何の見返りも期待していないのではないか…。母親の場合は少々あやしい(赤ちゃんの笑顔を期待しているかもしれない)としても、マザーテレサはどうか。彼女はインドの貧しい人々に無償の愛を与え続けたのではないか。見返りを期待せずに与えることもあるのではないか、という反論がありえます。
 少し前になりますが、雨のそぼ降る寒い日曜日に、見知らぬ人の訪問を受けました。扉を開けますと、みすぼらしい格好をした老人が、消え入りそうな風情で立っていました。「わたしは歌を作りながら全国を歩いています、よかったらこの歌を1000円で買ってもらえないでしょうか」と半紙をさらに半分にした紙に歌が2首載せられているのをおずおず差し出します。新手の乞食かと思いましたが、そのまま追い返すのは可哀相になり、1000円と引き換えにその紙を受け取りました。

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