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はじめての親鸞(その50) ブログトップ

2月15日(金) [はじめての親鸞(その50)]

 意地悪な悪魔に頭を狂わされているのかもしれない。
 引きこもりの青年も同じです。外は恐ろしい世界で、とても出て行けないと思っていても、ときには「ぼくを受け入れてくれる人たちがいるかもしれない」と思うこともあるでしょう。現にときどき誰かが訪ねてきて「きみが出て来てくれるのを待ってるよ」とドア越しに呼びかけてくれます。でも彼は思うのです、あれは悪魔の囁きかもしれないと。
 ほんとうはぼくが外に出ていったら食い物にしてやろうとてぐすね引いて待っているかもしれないじゃないか。このように彼は疑心暗鬼になり、自分だけの世界に閉じこもっているのです。彼にとっても、デカルトの「疑っているわたし」と同じく、確かなのは自分だけで、あとはすべて疑わしい。「わたし」とその内部(「わがもの」)だけは確かだとしてしがみつき、疑わしい外部に出て行くことはできないのです。
 「疑っているわたし」の内部から外部への通路は遮断されているということです。ふつう家の戸締りをするというのは泥棒が外から入れないようにすることですが、逆に外へ出ることができないようなロックが仕掛けられているのです。だからどんなに頑張っても「わたし」の外に出ることができません。デカルトは「疑っているわたし」から外の神や世界へ出て行こうとしましたが、外部と思ったところが実は依然として内部だったと言わざるをえません。
 内部と外部、なんでもないようでここには不思議があります。

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