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2月23日(土) [はじめての親鸞(その58)]

 あるとき「朝起きて夜寝るまですべて自力で生きているのではないでしょうか」と言いましたら、「あら、そうかしら、心臓が動いてくれるのは他力だと思いますが」と反論されました。なるほど心臓や腎臓はぼくが動かそうと思って動いているのではありません、勝手に動いてくれています。
 こう言い換えましょう、ぼくらがしようと思ってすることはすべて自力だと。当たり前と言えば当たり前です。その当たり前のことをデカルトは「われ思う、故にわれあり」と言ったのです。何かをしようと思うとき、必ずそこには「わたし」がいます。何かを「思う」ということがある限り、そこにはつねに「わたし」がいる。とすれば、何かをしようと思ってすることはすべて自力でしょう。
 絶大な権力をもつ者は「わたし」に無理やり何かをさせることはできるでしょうが、どう頑張っても「わたし」に何かをしようと思わせることはできません。「わたし」に無理やり頭を下げさせることはできても、「わたし」に頭を下げようと思わせることはできません。
 このように、ぼくらが日々こうしようと思ってしていることは、ひとの力に頼っていようと(前にも言いましたように、ぼくらは多かれ少なかれひとの力に頼らなくては生きていけません)、すべて自力です。としますと、救いは「わたし」が自分で手に入れることはできないが、「あなた」から与えられるというのはどういう意味でしょうか。「自力は難しいが他力は易しい」というものではないということだけははっきりしています。難しい易しいという対比は自力の中でのことで、他力には難しいも易しいもありません。
 では、自力と他力、どう違うか?

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