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2月27日(水) [はじめての親鸞(その62)]

 希望、これこそ地獄を生き延びさせてくれる最高の薬です。この薬さえ飲めば、どんなに寒くても、どんなに食べ物が少なくても、どんなに悪疫がはびこっていても、生きつなぐことができる。「なに、クリスマスまでの辛抱さ」と歯を食いしばることができる。ところが、そのクリスマスが近づいても、そしてとうとうその日が来ても、一向に連合軍がやってくる気配がありません。彼らの希望の糸はプツンと切れ、そしてあっけなく悪疫の餌食となっていったのです。
 彼らは家に帰れる日を待った。その日が来ると信じた。1944年の冬はそれがいかに脆いものかを教えてくれたのです。そこでフランクルは言います、「われらが何かを待つのではなく、何かがわれらを待っていてくれることが大事なのだ」と。ぼく流に言い直しますと、「わたし」が「あなた」を待つのではなく、「あなた」が「わたし」を待っていてくれることが大事だということです。「あなた」が〈いつか〉迎えに来てくれるのを待つのと、「あなた」が〈もうすでに〉待っていてくれることに気づくのと。こちらから求める「あなた」と、向こうから与えてくれる「あなた」と。
 「あなた」が迎えに来てくれるのを信じて待つとき、どれほど「あなた」への信頼が厚くても「ひょっとしたら」という不安が忍び込みます。普段でも、誰かが来るのを待つときはじりじりします。まだ来ないのか、何かあったのだろうか、と心配になり,こんなことならこちらから出向いた方がよほど気楽でいいと思ったりします。どうしてこうも落ち着かないのかと言いますと、信じて待つのは「これから先」のことだからです。これから先のことには、どこまでも「ひょっとしたら」がまつわりつきます。「明日も陽は昇る」と言いますが、ひょっとしたら夜の間に太陽が消えてしまうかもしれません。

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