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はじめての親鸞(その65) ブログトップ

3月2日(土) [はじめての親鸞(その65)]

 「あなたが待っていてくれる」ことに気づいたとしても、「ひょっとしたら」偽りではないかという疑いが生じるかもしれないということ。
 『歎異抄』にこんなくだりがあります。はるばる常陸の国から京に上ってきた弟子たちが真剣な眼差しで親鸞に尋ねたのでしょう、「ほんとうに念仏するだけで救われるのでしょうか」と。それに対して親鸞はこう答えます、「わたし親鸞としましては、ただ念仏して阿弥陀仏に救われるのだと法然上人からうかがってそれを信じているだけです。念仏がほんとうに救いへの道なのか、それともひょっとしたら地獄への道なのか、全く持って知りません」と。そしてさらにこう言うのです、「たとえ法然上人にだまされて地獄に堕ちたとしても、ちっとも後悔しません」と。
 弟子たちは「これから先」を予測しようとしています。念仏するだけでこののち救われるのだろうかと。それに対して親鸞は「もうすでに」救われていることに気づいたのだと言っているのです。法然上人のことばを聞いて「もうすでに」救われているのだから、たとえ将来地獄に堕ちたとしても、それはそれで構わないのだと。これは一見将来についてあやふやな印象を与えるかもしれませんが、実は天地がひっくり返っても揺るがない信念が語られているのです。いますでに救われているのだから、これから先のことも信じることができるのだと言っているのです。
 将来のことを信じるから、いま救われるのではありません。いますでに救われているから、将来のことを信じることができるのです。

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