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3月7日(木) [はじめての親鸞(その70)]

 「する」は何らかの動きを伴うのに対して、「いる」はある状態に静止していることを表しているように見えます。
 たとえば「ぼくは自分の部屋にいてパソコンを操作している」は、自分の部屋に「いる」こととパソコンを操作「する」ことに分けることができます。しかし「動作と静止」という区別は曖昧で、ぼくは部屋に「いる」と言うとき、確かに部屋の中でジッとしています(椅子に座っていて動いていません)が、頭の中は忙しく動いています(いろんなことを考えています)。
 そして今部屋に「いる」のは、少し前にこの部屋に入ってきたからで、入るという動作の結果として今ここに「いる」のです。さらに言いますと、今部屋に「いる」のは、ここにいようと思っているからで、出て行こうと思えば、もうここにはいません。としますと、部屋に「いる」ことと、何かを「する」ことの境界は限りなく曖昧になります。
 生きることは「する」ことで覆われていると言いましたが、部屋に「いる」ことも広い意味で「する」ことに含まれます。ジッと静止していることも「する」ことなのです。では、そうしたあらゆる「する」ことの前提条件としての「いる」こととは何でしょう。部屋に「いる」ことも含めた広い意味の「する」こと一切を成り立たせている「いる」こととは何のことでしょう。
 それはこの世に「いる」こと、生きて「いる」ことです。「いのちあっての物だね」ということばがありますが、この「いのちある」こと、これがあらゆる「する」ことの前提条件としての「いる」ことです。

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